00266-041231 写条と音読と筆写と黙読と……
普段、shioの頭の中をめぐっているのは民法と著作権法なのですが、それらの条文の解釈をつきつめていると、はっ、と憲法の条文に思い至ることがしばしばあります。そういう意味で憲法は深いと思います。どの法律から見てもその法律が実現しようとしている価値のエッセンスが憲法に書かれている。憲法はすべての法律の基盤になっていると同時に、まさに日本の法律の頂点に立っていることを実感するのです。さらにそこに描かれている価値は、普遍性が高い。
法律を追求するほど、憲法の気高さを感じます。
さて写条について。
池内さんは小学校で「音読筆写」をお薦めとのことです。非常に有意義だと思います。shioも小学校から現在に至るまで、頻繁に音読筆写をしています。小学校の国語の時間に音読筆写を習ったのがその後の人生で接する大切な文章をあたりまえに音読筆写するきっかけになったのだと思います。
外国語を身につけるときも、音読筆写が極めて有効です。shioが中学3年間の英語の教科書を、頭の中でページをめくることができるほどに記憶していたのは、音読筆写のおかげだと思います。中学だけでなく、高校の時も、英語のテキストブックはすべて例外なく音読筆写いたしました。
高2、高3の頃、周囲の友人たちが教科書や受験用のテキストブックのページを拡大コピーしてノートに切り貼りし、それに訳語や文法事項などを書き込んでいるのを横目で見ながら、shioは一回もそれをせず、すべてノートに原文を書き写していました。万年筆できれいに、いや美しく書き写すのが楽しかったのです。ちなみに中学1年からの6年間、ノートをとるのは中学の入学祝いにいただいたパイロットの万年筆を愛用していました。
ですので、一昨日のblogで“写条”という、あたかも特別なことばを用いましたが、shioにとって「書き写すことによって文章の心を読み取る」のは、至極自然なことなのです。
では「筆写」のみならず「音読」するのはなぜか。
ことばは元来、音であって文字ではないからです。
ことばを身につける際には、必ず音から入るべきだと考えています。だから、文字で書かれたテキストも、自分で音にすることによって、音として受容する。音こそことばの本源です。音なくしてことばはありえない。だから、単なる「筆写」ではなく、「音読筆写」なのです。言い換えると「筆写」は本質ではなく、「音読」こそ本質的なのです。
したがって、音読は必須である。必須であるというより、文字は音にして初めてことばとして生きる。自分で音にすることによって頭に音を響かせ、その音を自分で聞く。そこに意味があるのだと思います。音読は当然です。
一方、「音読」の本質的意義に対して「黙読」の重要性も顧みられるべきです。「音読」とは全く異なる「技術」として「黙読」を教えることが重要だと思うのです。
「黙読」とは何か。
黙読は、音読よりもはるかに速いスピードで文意を捉えることが目的です。
単に声を出さずに読むことではありません。小学校から音読を身につけてゆくと声を出して読む癖が付くため、たとえ「黙読」をしても、無意識に頭の中で声を出して読んでしまいます。この場合、黙読をしているにもかかわらずそのスピードは音読とほとんど変わりません。本当に黙読をするためには、頭の中での音読をしないことが大切だと思います。それを実現するために、世に言う「速読法」があるのですが、その内容はたいがい、呼吸法と眼球運動の鍛錬。しかしそこまでの「速読」をしなくても、本当の「黙読」をするだけで、読むスピードははるかに速くなるはずです。
1年間。
みなさまのおかげでとても充実した時間を過ごすことができました。shiologyも266回を数えることができました。どうもありがとうございました。心より感謝申し上げます。